集団としてのモデル

 先日、友人に聞いた話。
 彼の仕事場は、慢性的に負荷が高く、激務にも関わらず、給与的には報われない。コストがかかるから、人員を増やすこともしない。
 まぁそうなると当然、何人かに1人は、体や精神を病んでしまうらしい。
 で、そんなになるまでコキ使うぐらい非道な体質なんだから、落伍者である彼らの首などポイと切ってしまいそうだが、実はそうでは無いらしい。
 倒れた者にたいし手厚い補償はあるし、復帰後も出来るだけ軽い負荷のリハビリ業務を与え、ゆっくりと面倒を見る。つまり、「コストをかける」のだ。
 最初は違和感を感じたのだが、実はこれ、案外リーズナブルなシステムではなかろうか。
 
 例えばの話。
 100人が必要なプロジェクトがあるとして、1人1単位ずつ人件費がかかるとすれば、必要な費用は100単位だ。
 でもそれを50人の人間にやらせたら、50単位の人件費ですむ。
 もちろん50人は倍の負荷をかけられているわけだから、タダではすまない。
 何人かは体や精神を壊すだろう。まぁ1割の人間(5人)が病院送りになるとする。
 もちろんコストはかかる。でも1人当たり、5単位の補償をつけても、トータル75単位の費用で済む。
 やっぱりトクだ。

 しかも、「もし俺達が倒れても、あんなに手厚く会社は面倒見てくれる。」というわけで、最低限の士気は維持できてしまう。もちろん社員同士も明日はわが身なので、彼らに暖かく接する。 サラリーマン達はさらに崖っぷちで頑張れてしまう訳だ。

 こうなると、システム的には低コストの競争力のある体制がそれなりに成り立ってしまっているので、「みんながゆったり、高能率で仕事が出来る体制に変えよう」というインセンティブは永遠に働かない。

 恐ろしいことだし、身近に思い当たるフシも、無いではない。