速報

 さっきチャイムがなった。

 インターホン取ったら、落ち着いた優しいおばさんの声で「あなたの幸せと健康のために、聖書のお話を・・・」

 そうか日曜の昼間だったか。


 「そういうの興味ないんで良いです」
 「あ、宗教ということで警戒されておられるんですか? 」
 「いえ、宗教の価値や効能は認めますが、自分の価値観を、なにか他の人間が決めたものに委ねてしまうのが、嫌なんです」
 「そうでしたか・・・・。お考えをおっしゃって下さってありがとうございます。貴重なお時間頂戴しました。それでは失礼します・・。」

 そういって大人しく帰って行った。 

 その物静かな対応と、押し付けがましくない態度にかなり好感を持った。きっといい人なんだろうなぁ。

 良い宗教というものは、個人の精神の安定と幸福のためにとてもいいものだと思うし、信仰者を一からげに怪しく思うのはとても間違えた事だと思う。
 
 ただ、私個人としては、自分が培ってきた価値観を軸に自分の頭で考え、物事の良否を判断したい。(道徳律はわがうちに、というやつだ)
 その現代人の価値観というものが、とても脆い物(特に戦争や災害、自分や近しい他人の死、等の圧倒的現実の前には)だということや、そもそも外部環境に意識的/無意識的に大きく影響される幻像にすぎないということに、薄々感づいてはいるのだけれど、それでも。

 だって判断のよるべを、組織や他の人間という外部器官においてしまうと、彼らが間違えていた時に判断のしようが無い、と思うのだ。
 そしてその外部器官とは宗教に限らず、会社だったり、政府だったり、マスメディアだったりするのだが、それらを盲信し、他の価値観を認めず、垂れ流される判断を振りかざし押し付ける、という所まで行ってしまうと、どうしても好きになれいし、何より美しくない。
 そう、美学に反するのだ。