人間様の限界

 思想や考え方に深く影響を与えた書物(もしくは著者)を5冊挙げなさい、といわれれば、確実に入るのがドーキンスの「利己的な遺伝子」とナシーム・タレブだ。
 (こう書けば、私がどんな人間か分かる人には分かるだろうな・・)
 さて、このタレブの書物でよく引き合いに出されるのが、人間が如何にリスクや確率を定量的に捉えるのが不得意か、ということだ。
 一番身近な例でも、競馬や宝くじは確率的には明確に損(というか分の悪い賭け)な訳だが、あきらかに多くの人間に受け入れられている。その他の色々な実験でも、人間の脳は「直感的には確率的な損得を判断できない仕組み」になっていることが確かめられている。 
 「確率○○%」という数字の大小にまで落とし込まないと、判断出来ないのだ。
 なぜか。なぜ万物の霊長たる人間様は、もっとクレバーに出来ていないのか。


 っていうことを良く考えているのだが。
 現段階での私の仮説は、「進化の過程で『そんな確率は、分からない方が得』だったから」
 社会システムが高度化し文明化した現在でこそ、リスクや「どちらが得か」を推し量る事は意味があることになったが、これはごく最近のことだ。
 原始世界では、「基本的に分の悪い賭け」ばかりで、そんなことが直感的にわかる様な脳は「百害あって一利なし」だったから、じゃないだろうか。
 例えば、「マンモスを狩りにいかないと、集団全体がいずれ飢え死にする」という状況の場合。
 狩りはあまりに危険で、誰かが確実に死ぬ。結構な確率で自分も死ぬということだ。
 しかし、狩りに行かなくても、すぐには死なない。なにか他のエサが得られるのかもしれないし。
 「結構な確率ですぐ死ぬ」と「すぐには死ぬ可能性はあまりない。」、冷静かつ個人的に考えれば、避けられるリスクである前者を選ぶものは少なく、普通は後者をえらぶだろう。しかし、そんな集団は飢え死に寸前までだれも狩に行かないので(そしてそんな状態で狩りは成功しないので)、いずれ滅んでしまうだろう。 
 個人としては確率的に不利な賭けでも、「度の外れた大当たり」があるなら賭けてしまう、そんな人間が多いほうが、集団としては発展するに違いない。
 まぁこれは極端な例で、淘汰圧が集団にもかかるという前提を無言のうちにしてしまっているが、そうでなくても、「死ぬ確率を冷静に考えたら馬鹿らしくてやってられない」不利な賭けは、昔はそこいら中に転がっていただろう。
 だから、「その賭けが出来る程度に、人間は馬鹿に作られている」というのが私の説だ。
 またもう一つの理由として。
 そもそも、皆普段は目をそむけているが、人間いつかは確実に死ぬ。これは100%なので、リスクとか賭けでさえない。
 この未来を、手に取るように実感・予測できてしまうなら、多くの人間は「どうせ死ぬんだから馬鹿らしくて生きてられない」筈なのだ。
 人類は進化の過程で時間という概念を手に入れ、計画を立てたり予測したりということが出来る程度に利口になった訳だが、反面、「世をはかなんで死なない程度に未来が認識できない馬鹿」というさじ加減のある進化でもあるという訳だ。