お約束

 1月2日には、近所の神社に初詣に行った。 そして初詣といえば屋台。 子供(小)も盛り上がっている。
 最終的に射的かくじ引き、どちらをするかで悩んでいたので、「どっちでも良いけど、くじ引きは大きい景品は当たらないよ」とアドバイス
 「えっ、そうなの?」と聞くので、「だって、大きい景品はぜんぜん減ってないだろ? 最初から当たりクジ入れてへんねん」と説明すると、納得していた。

 さて、この私のくじ引きに対する圧倒的な不信はどこから来たのか。 自らに問うてみたら、こんなことに思い当たった。




 子供の頃、100円を貰っては、近所の駄菓子屋に足繁く通っていた。
 もちろん駄菓子やアイスも目当てではあったが、射幸性をあおる各種のくじ引きも大好きだった。 昔からギャンブラーだったのね。 
 何が当たるか分からないドキドキ感、ひょっとしたら憧れの大物をゲットできるかもという期待・・・・ロマンすなぁ。
 それらのくじ引きの中でもお気に入りの一つに、スーパーボールクジがあった。大きいボール紙に沢山のスーパーボールが嵌め込まれており、引いたクジの番号に応じ、店のババアが取り出してくれるという代物だ。
 スーパーボールの配置も凝っている。下の方には小さな雑魚ボールだが、上にいくにしたがって大きくなる様は番付のよう。 もちろん最上段に並んだ物はまさに横綱と言う称号がふさわしい。 
 鶏卵の様な巨大サイズなのもさることながら、外観もカラフルであったりキラキラしたものが封入してあったり、なにやら「ただ者では無い」雰囲気にあふれた素敵な物だったのだ。


 そんなある日のこと。 またしても駄菓子屋にスーパーボールのクジ引きがあったのだが、いつもと様子が違った。 もうクジも景品も残り少なかったのだ(確か10枚ぐらい)。
 そこで、横綱が景品として複数のこっていたのを発見した私は、一世一代の賭に出た。
 家にいったん帰ってお金を取ってきて、おばちゃんに「クジ全部ちょうだい!」と言ったのだ。 あの巨大スーパーボールは全部俺のもんや!!

 ほくほくしながらクジをめくっていく私少年。 あの巨大スーパーボールは誰ももっておらず、入手すれば羨望の的になることは確実だ。 こりゃぁ良いスキームを思いついたわい。

 しかし、当たるのは小さい雑魚スーパーボールばかりで、全てのクジをめくっても、目当ての巨大スーパーボール達は涼しい顔をして番付に鎮座している。
  「あれ??? これって・・・????」 うろたえる私。

 それを見ていた駄菓子屋のババアが、さもいまいましい口調で「しゃぁないな、もう!」と言ったかと思うと、残った巨大な物の一つから適当に一つだけをもぎ取り、私に押しつけた。「これ持って帰り!」
 
 おぼろげに状況が理解できてきた私。 しかし汚い現実に直面するのを避けるように、そのスーパーボールを持って逃げるように駄菓子屋を立ち去りました。


 そして。 後日、店を再訪すると、他の巨大スーパーボールは、100円以上の途方も無い高値で、商品として個別に販売されていました。 



 
 書いていて思ったんですが、「小僧の神様」みたいな掌編じゃねこれ? 
 自分の中学校入試の長文問題に使いたい国語の先生、ご連絡お待ちしています。