それが俺のやりかた

 自分は平均よりも、写真を多く撮ってきた方だと思うのだが、そうすると自然に撮影するスタイルが決まってくる。
 「あ、こうしたら、こういう写真が撮れるな」という最終的な絵がまず浮かんで、カメラの構図やシャッターチャンスによって、そのイメージに出来るだけ近い現実を切り取る、というやり方だ。まぁ他の写真好きな人もそうだと思うのだが。
 おそらく、絵を描く人もそうなのだろう。最終的なイメージがまずあって、筆や絵の具や自分の技術を使ってそれを再現していく、という作業なのだと(勝手ながら)考えている。
 で、「あ、こうしたら、こういう写真が撮れるな」の「こうしたら」の中身は、「このカメラとレンズで、この距離でこの高さから撮った構図で。被写体はあと数瞬であそこを通り過ぎるからそれを背景にして。撮りたい表情はあの表情であっち向いたとき」という結構細かい要素まで自分の中では決まっている。
 逆に言うと、いくら感動的なシーンや美しい風景でも、「このカメラとレンズじゃろくな写真とれんわ」というのも予測できるので、そう言う時はカメラを向ける気が進まない。(記念や記録としての撮影になる)
 

 さて、話は変わって、子供(小)がとうとう無事に小学校に入学しました。ありがたいことです。
 大事な記念日ですので、もちろん有給を取得して入学式に出席しました。
 いざ式が始まると、上級生と手をつないで舞台にあがってくる我が子に感慨もひとしお、と言うところではあったのですが、写真となるといけない。なにぶん広い講堂、手持ちのズームレンズでは米粒のようにしか写らない、のが予想できます。
 でもまぁ記念ですし、とカメラを向けてはみたものの、案の定、なんとも締まりの無い写真になってしまいました。
 
 
 さて、やがて入学式もおわり、帰路のこと。 とおりがかった民家の花壇に、若い猫が植わっていました。
 おう、これは良い被写体じゃわい、とパチリと写して帰ったのですが、データを見た妻に「自分の娘より猫の方が可愛いんじゃ無いの!? なんか明らかに愛を感じるんだけど!?」とあらぬ疑いとともに、怒られてしまいました。
 いやいや、それは撮影行為におけるプロセスの差であって、愛の差では無いんだよ、と説明したのですが、「・・・けどなんだか違う!」と釈然としない様子でした。 困る。