献血

 基本、平日は私が帰る時間には、妻子は寝ている。
 結果、自然と、「妻が私に見せたいものがあれば、テーブルの私の席に置いておく」というルールが出来ている。
 娘の作文とか最近だと通知簿等の子供関連のものもあれば、請求書や銀行からの書類もあるし、手紙もある。
 そんななかでたまに、どういうつもりか宗教関係のチラシが置いてあることがあり、(妻の真意ははかりかねるものの)興味深く見ている。
 今日は「エホバの承認(仮名)」のパンフだったのだが、いいことを書いている。
 きっとこれを書いている人も、配っている人も、感謝と友愛に満ちた良い人で、心からの善意で活動してるんだろうなぁと信じられる内容だった。 日曜に来る人たちも、みるからに善き人だよ。本当に。 自然と尊敬している自分に気付いてしまった。
 

 さて、それなのに。なぜゆえ私は宗教を厭うのだろうか。 
 自問し、下記のことに思い当たった。
・私は「信仰」という主体的な心の動きには好意を持っている模様。
 ところが「宗教」という没個性な組織活動として捉えると、とたんに身構える様だ。
・特に、既存の大きな宗教の唱える内容には胡乱なイメージを持っている模様。
 たとえば、「神はこう言います」とか聞くと、「あんたの所の親玉は、直接神と話できるの? それさえも出来ない宗教の唱える『神の言葉の解釈』なんて信じられない。」と思ってしまう。
 一粒の種に水をやるだけで草木に育ち花を咲かせる、そこに奇跡と神の御技を感じないでもない。が、「あ、それウチの神様が創ったんスよ」て言われてもねぇ。「証拠出せよ」とか「先週来られた業者さんも同じことおっしゃっていたわぁ」と思ってしまう。

 
 突き詰めると、活動している個々人の善意は信じるが、組織になったときの人間の愚かしさも信じているので、紛れ込み積み重なった嘘やご都合主義の存在を「教え」の中に嗅ぎ取っているんでしょうな。 

 あ、でもこういう私みたいな人間が、目の前で奇跡(みたいなもの)を見せられたら簡単に転ぶのかもしれないな。オウム最盛期の信者みたいに。
 前にも書いたが、思い当たるフシはあるな。アロエ信仰とか。