人生とは

 最近思うんだが。「結果が全て」とは良く言われることだが、「過程が全て」の物って結構あるような気がする。とくに大きいものほど。

 例えば、今のマンションとかでいうなら、仲介業者の担当が凄くアタリだった。明らかに販売上不利な事も客の損になることはハッキリ言い、決して押し付けがましくない。知識も深く頭の回転も良く、礼儀正しい。私は彼のことを「信じて」おり、彼が薦めた物件のことを「信じている」。そのおかげで、売買直後も「いい買物をした」と満足だし、その後少々瑕疵があっても(そして中古だから何かしらある訳だが)「ま、こんなもんなんだろ。」と気にもならない。これが精神的平和にすこぶる良い。
 これが、信頼できないいいかげんな営業から物を買ってしまうと、「決してアイツに騙されてなるものか!アイツの得は俺の損だ!」と、売買に至るまでも疑心暗鬼だろうし、住んでからも常に目を皿にして瑕疵を探し、何かあったらとりあえずクレームを入れる・・・とこうなりそうで、なんだか疲れそうだ。
 何の根拠もなく盲目的に信じるのはただの宗教行為に過ぎないが、でも「信じる」という行為には心の平安が存在するのは確かだと思う。


 今回も、最終的には王子の所に決めてしまったが、第2候補の設計事務所は、デザイン面では少し不満だが、仕事のまじめさには完全に真がおける所だった。王子の件がなければ、絶対にそこに頼んでいた。
 第3候補の設計&工務店は、デザイン力は100点で、価格もかなり頑張ってくれたのだが、僅かに肌に合わない&知識レベルに不安な所があり、心配が残ったので脱落した。
 第2と第3の差は、プランの完成度ではなくて、「安心して任せられるかどうか」だったのだ。 とはいえ、第3候補も妻の友人(そこで建てた)の紹介であり、そここは良い感じのおうちであったのだが、それでも心配だったのだ。要求する信頼レベルが高いのかもしれない。

 完成に至るまでの進め方として、少しでも疑問があるたびに色々詰めていって、向こうの情報を完全に吐き出させるやり方もあるのだが、所詮こっちはシロウト、相手はプロだ。どこかで信じるしかない一線はある。
 そこを信じきれないと、(日程もアウトプットも管理方法も)完璧から少しでも外れた部分に物凄く目がついてしまい、攻撃的なやりとりで完璧な姿に修正させることになる。また、少しでも不明な部分は、何か相手が隠そうとしていないか、自分を有利に運べる余地が無いか、掘り下げまくる。 向こうがあやふやで済ませようとしたら、そここそ突っ込みどころだ。向こうはかなり後悔することになるかもしれない・・・・。
 実は、仕事で外注先を管理する時は、まさにこのようなスタンスとなる。だがこれは物凄く工数と精神力を使う事だ。 プライベートでは、100点を狙う訳ではなし、時間も限られるし、そこまではやりたくない。もちろん判断をすべて丸投げする訳ではないが、ある程度信頼できる人間に任せたいのが本音だ。
 完成までも、もちろん完成してからも、疑心暗鬼にならない、それが精神的健康にとても重要だと思うのだ。究極的には、たとえもしアウトプットが同一のものだったとしても、だ。


 と、こういった思考から、冒頭の「過程が全て」の発言となるわけだ。
 だってさぁ、究極の話、人間なんて誰もいつか死ぬ(最終的なアウトプットは「死」)訳で、それを考えれば本来全てが無意味だ。そこまでをどう生きるか、って過程が幸せには大事じゃないかなぁ?