断続的ながらも、いつのまにか20年近くも続いているこのブログ。
私個人としても、過去を振りかえるための立派なツールとなっている。
多くのイベントは何かしら言及してあるので、「あれ、いつだったっけ」となったら検索すれば良い。
というわけで、世界に発信したい高邁な主張でも、後世に残したい椿事の記録でも無いのだが、将来的な「いつだっけ」のために下記、メモしておく。
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●2022ねん なかごろ●
ぼくのおかあさんが、おとうさんをおいて、おうちをでていきました。
おとうさんが、こうばのじむいんのおばちゃんと、すごくながいあいだうわきというものをしていたのが、いまになってわかったから、だそうです。
おとうさんは、のうこうそくというごびょうきになってから、あるくのにすこしくろうをするようになっていて、おかあさんががんばっておせわをしていたのだけれど、それなのにおかあさんのめをぬすんでおばちゃんにでんわをしていて、それがみつかったのがきっかけだそうです。
おかあさんは、こんなおっさんのめんどうをみるのがばからしくなった、といっていました。
●2022ねん 10がつごろ●
ぼくのおかあさんが、おとうさんをおいて、おうちをでていきました。
ここまでよんだみらいのぼくは、「あれ、おかしいな、うえにもう『でていきました』ってかいてあるというのに。」とおもうかもしれません。
でもぼくよ、おもいだしてください。 おかあさんは、あのあとしばらくして「むすこたちにめいわくをかけるわけにはいかない」そうかんがえておうちにもどってくれていたことを。
そして、おとうさんのむかしのうわきがもうひとつばれて、ふたたびでていってしまったことを。
うわきというものがどういうものかはわかりませんが、なんだかとてもこわいものだとおもいました。
こんかいばれたうわきは、ぜんかいのような「ちょっと、てぢかなじむいんのおばちゃんにてをつけてみた」というものではなくて、「こうこうせいのときのかのじょと、ずーっとくっついたりはなれたりしていた」というもので、そこがおかあさんの、きんせん、というものにふれたみたいです。
とくに、ぼくたちさんにんのきょうだいがちいさいときに、おとうさんはおしごとがいそがしくてあまりいえにはかえってこなかったので、おかあさんはひとりでたいへんなおもいをしてぼくたちをそだててくれていたのですが、じつはおとうさんはそのときにもそのかのじょとよろしくやっていたということを、おかあさんはすごくおこっていました。
なかでも、こうえんでかのじょのてづくりのおべんとうをたべていたりしていた、というえぴそおどには、ことのほかごりっぷくでした。
もともとおかあさんは、おとうさんのせいかくやかんがえかたをひどくきらっていたのだけれども、おとうさんがあまりおうちにいないことで、ぎゃくに、なんとかいままでやりすごせていたようにおもいます。
そして、おとうさんのあしがわるくなってからは、おうちにいるじかんがひやくてきにふえたことで、けんかがふえたようですが、「むすこたちにめいわくをかけるわけにはいかない」「おとうさんはいままでがんばってはたらいていてくれたから」とじぶんにいいきかせることで、かろうじてばらんすをとっていたようです。
だけれども、こんかいさらにうわきがばれたことで、おかあさんにとっておとうさんは、「ただのかおもみたくないおじさん」になってしまったので、どうにもがまんができなくなってしまったようです。
ぼくは、おにいちゃんとおはなしをして、「おかあさんはもうもどってこないだろうから、けあまねぇじゃぁさんにそうだんして、でいけあやへるぱぁさんでなんとかしよう」とほうしんをきめました。
おとうさんは、「おかあさんがおこってでていってしまった。むかしのことやからもうしかたがないのに」とゆっており、じぶんがわるいことをしたとはあまりおもっていないようです。 そういいながら、おかあさんのけいたいでんわに、いちにちになんじゅっかいもでんわしています。
おかあさんがなりつづけるけいたいでんわにこまっていたので、ぼくが、ちゃくしんぶろっく、のやりかたをおしえてあげたらたいそうよろこんでいました。
ぼくも、おやこうこうができて、よかったなとおもいました。
おかあさんは、ういーくりーまんしょんや、びじねすほてるをとまりあるいていますが、「りょこうしえんというものがあってたすかった」といっていました。
●2022ねん 12がつ●
おかあさんが、ちんたいをかりました。
ぶっけんさがしは、ぼくがおかあさんといっしょにしたのですが、こうきこうれいしゃになると、なかなかかしてくれるところがなくて、けっこうこまりましたが、いいところがみつかってよかったです。
また、ぶっけんさがしのときに、おかあさんとおはなしをするじかんがたくさんあったのですが、いままでしらなかったことをいろいろおしえてもらいました。
なかでも、ここなんじゅうねんかは、おとうさんが、こうばのけいえいをあまりまじめにしておらず、たいへんなことになっているということをきいて、よくないなぁとおもいました。 いままでは、おとうさんが「おまえらはなにもわかっていない。くちをだすな」といばりちらしていたせいで、ちっともわからなかったそうです。
いっしょにしごとをしていたおにいちゃんは、すごくおこっています。それに、まだおとうさんがげんきだったころ、こうばのひきつぎについてそうだんしようとしたら、くるったようにおこられたらしく、そのことをふかくうらんでいます。
もしちきゅうで 「おとうさんのことをきらいな、いちばんのひと」 が、おかあさんでないとしたら、それはまちがいなくおにいちゃんだとおもいます。
なぜいまになってこういうことがわかってきたかというと、おとうさんが、のうこうそくというごびょうきになって、こうばにいけなくなったことで、ほんとうのことがかくせなくなったからです。
そして、なにかおかしいなぁ、とおもったおかあさんが、じむいんのおばちゃんをおいだしてじぶんがじむをするようになって、いよいよけいえいがよくない、ということがあきらかになってきたというわけです。
そのおいだされたじむいんのおばちゃんは、もうはちじゅうさいをこえていて、たいしたじむもしていなかったのですが、それでもおとうさんはたかいおきゅうりょうをはらっていたことがわかって、そのことにもおかあさんはおこっていました。
ちなみに、そのじむいんさんは、むかしおとうさんがうわきをしていたじむいんさんです。
そんなおとうさんのげんざいのせいかつは、よていどおりへるぱーさんや、でいけあ、それにかぞく(おかあさんいがい)によりなんとかなっています。
それでも、ぼくとおにいちゃんのおよめさんには、いろいろとめいわくをかけているので、ぼくもおにいちゃんもあたまがあがりません。
はんめん、おとうさんは、ほんとうはじぶんでできることでも、すぐにひとにめいれいをしてやらせるというわるいくせがあるので、ぼくやおにいちゃんをひどくおこらせています。
「あしがわるくてかいものにいけない」「むずかしいことはかんがえられない」「おぼえていない」とあわれなことをいって、なんでもひとにまるなげしてくるのですが、じつはひとりでながいさかみちをあるき、ばすにのってまちにいき、ぱちんこにいったりしているのをぼくはしっています。 また、びょういんのけんさは、なんかげつかさきのよていでも、けっしてわすれません。
おかあさんには「あのひとはほんとうにうそつきだから、しんじてはいけない」とゆわれています。 けれども、ぼくとおにいちゃんのおよめさんは、こころがきれいなので、そうきいていても、おとうさんのあわれなうったえをまにうけて、いろいろしてあげるので、こまったなぁとおもいます。
もっとこまったことには、おとうさんがそんなおよめさんたちにひんぱんにでんわしてくるようになってしまいました。 いそがしいときにねらったようにかけてくるわりには、ないようはじつにつまらないことがおおく、それもはらがたつなぁ。
ぼくやおにいちゃんは、そんなでんわはむししていい、といっているのですが、およめさんたちはぜんにんなので、ときどきでてあげているようです。ますますあたまがあがりません。
でんわといえば、あいかわらず、おとうさんからおかあさんには、いちにちなんじゅっかいもでんわがあるようです。ぶろっくしてあるので、でんわはならないのですが、けいたいのめにゅーから、りれきというものをかくにんできるようで、おかあさんはたまにそれをみてたのしんでいるようでした。
●2023ねん 1がつ●
おかあさんがいえにいない、しんねんがきました。
おかあさんのせいかつもあんていしてきて、すっかりあかるくなってよかったとおもいます。
おとうさんのほうは、こまったことがおきました。
ていきけんさのいかめらで、いに、がんというわるいできものがみつかったのです。
そうして、なにかこまったかというと、しゅじゅつをするばあい、びょういんがおうちからとおいので、たのかぞくに、じゅんびやおくりむかえで、なにかとふたんがかかるということです。
また、そのびょういんはきかんびょういんといって、こうべでいちばんおおきなびょういんなので、しゅじゅつのあと、ゆっくりにゅういんさせてくれたりはしないので、そういうところもかぞくのふたんがおおきいところです。 また、おとうさんはとうせきといって、いっしゅうかんにさんかいも、ちをきれいにするしせつにいかねばならないので、そのあたりとのちょうせいもたいへんだったりします。
ちなみに、なぜわざわざとおいびょういんにいっているかというと、おとうさんが、こうべでいちばんおおきなびょういんにこだわって、ほかのびょういんにいきたくないとだだをこねたからです。
おとうさんは、わかいときはいせいのいいことをいって、すきほうだいにせいかつしてきたくせに、いざびょうきになったらしぬことがすごくこわくなってびょういんやけんさがだいすきになってしまっており、そんなところもおかあさんはひどくけいべつしています。
おとうさんはななねんまえに、かんぞうというところにがんができたことがあったのですが、そのときもおかあさんはいろいろとてんてこまいだったとゆっています。
おいしゃさんのいうには、こんかいみつかったできものは、とてもちいさいので、ごねんぐらいほっておいてもよいそうです。また、おとうさんははちじゅうさいなので、しゅじゅつはしなくてもよいともゆっていました。
だけれどもおとうさんは、とにかくわるいものはこわい、とってしまいたいとのいってんばりで、いっぽもゆずらないので、いかめらでしゅじゅつすることになりました。
おかあさんは「そんなんみつけんでええのに」とおこっていましたが、ぼくは「それはびょういんもしごとだからなぁ」とおもいました。
ちなみに、おとうさんはこのころ、「おかあさんにあやまりたい。でんわにでてもらえるよう、おまえからいってくれ」とぼくにいってきたことがありました。「あやまらずにはしねない」そうです。
ぼくは、「おかあさんは、おとうさんのこえもききたくないといっている。おかあさんのことをかんがえるのなら、そっとしておくべきだ」とおもったので、そうつたえたのですが、おとうさんは「とにかくおれがあやまりたいんだ」とくいさがってくるばかりで、あいてのひとがどういうきもちになるかというしてんは、まったく、りかいしてもらえませんでした。
そのひのごご、ぱちんこにいったあとはなにもいわなくなったので、しゅじゅつのことをかんがえたらちょっとこころぼそくなって、おもいついただけだとおもいます。
ちなみにそのご、しゅじゅつはぶじせいこうしたのですが、やっぱり、びっくりするぐらいすぐにたいいんさせられてしまいました。
けれども、さすがにだれかがようすをみておくひつようがあるので、べつのしせつにたんきてきにはいってもらうことにしました。
そのだんどりやじゅんび、おくりむかえにまたもやおよめさんたちのちからをかりてしまい、ほんとうにぼくとおにいちゃんはほとほとあたまがあがりません。
とくに、おとうさんは、ひんぱんにとうせきがあるので、それをうけいれてくれるしせつをさがすのもたいへんで、けあまねさんにもおてまをかけてしまったとおもいます。