不惑の窓

 「自分の人生をひとことで表わせば?」と聞かれたら、答えに躊躇はない。「遠慮」 だ。

 

 思えば今日まで四六時中、人目を気にして、肩身狭く息苦しく生きてきた。 (と、私自身は思っている。 本気だ。)

 

 自分ほど他人の一挙一動に怯え、窮屈に縮こまり、衝突を避けて生きている人間はそうはいないと感じている。 いや、衝突どころか、他人とのちょっとした摩擦でさえも私の精神の柔突起を揺さぶるに充分だ。 せめて世間一般の人ぐらいに無神経であれば、生きていくのがどんなに楽なことか。 (繰り返して言うが、本気だ。) 

 

  そんな積年の思いを妻にも吐露したことがあるが、その時は共感は得られず「・・・ふーん?」という反応であった。 

 なんと浅慮で洞察力に欠けた配偶者であることか。 嘆かわしい。

 

 

 ・・・と言うのを話の枕として。

 ひさびさのリアル出張のため、新幹線に乗って窓の外をぼーっと見ているとき、稲妻の様に気づいた。 「あれ、俺より遠慮して生きている人って、じつは結構いる?」 と。

 

 何かというと。

 

 出張と言えば乗り物の予約がつきものだが、前職での頻繁な海外出張を含め、私は常に窓際の席をチョイスしてきた。 そこにメリットを感じるから。

 まず第一に景色を眺められる、寝るときに壁にもたれられる、そして座ってしまえば邪魔されない。(通路側の席だと、窓側の人の出入りの時に自分も立つ必要がある。)

 

 この窓際≫通路側の図式は普遍的な傾向だと思っていたのだが、実はそうでも無いことが前職で判明していた。 数え切れないくらい出張を繰り返すうちに、皆「通路側の方が良いよね」という派閥に鞍替えしていくのだ。 

 以前、いらない気を利かせた同行者に 「あ、チケットとっておきましたよ。通路側で良かったですよね」と言われてマジ殺すぞ、と思ったことがあった。そのような判断が、飽きるほど出張してきた人々の間では常識であることらしい。 すくなくとも前職では。

 その「常識」にいきつくロジックはこうだ。

  1,いまさら窓の景色に興味は無い

  2,通路側は、自分が出入りするとき、人に気を遣わないですむ。

 

 この「2」の「人に気を遣わないですむ」がポイントなのだ。この判断をした人々は、窓際の人の出入りで「自分が邪魔される」デメリットより、「自分が気を遣わないですむ」メリットの方が大きいと判断したのだ。

 窓際から通路に出るときに「あ、すみませーん」と自分が言う面倒より、「あーどうぞどうぞ」と譲る面倒を選好したのだ。

 

 逆に言うと、その構図をわかっていながら頑固に窓際を選ぶ自分は。

 「いや、出たいときは言うたらええがな。仕方ないし。」と思っている自分は。

 まさかとは思うが、その人達より厚かましいと言うことになりはしないか。

 

 そしてこの「結局通路側だよね」が一般的に到達する心理であるなら、自分は世間というセンターラインに対し、「鈍感」のクラスタに立っている可能性はあるまいか。

 

 

・・・・という仮説を思いついてしまったのですね。

 もしそうだとしたら、一般的な日本人はどんなに生きづらいねん、という話ですわ。俺様ですらこんなに遠慮して生きているのに。

 

 しかし、そんなとき。車窓に姿をあらわした富士山に感動したことにより、そんな邪念?も吹き飛んだ。

 そう、俺は窓際からの景色をひどく愛している。 繊細さと遠慮の結晶の様な俺の精神をも狂わせてしまう程に-ー-。 

 それだけの話なのだ。 きっと。