いじめに思う

 いじめと言えば人間だけかと思うが、あの大人しく可愛いイメージのリスさんでも、劣った個体に対して陰惨ないじめ(というか攻撃)をするという。
 考えてみれば、いじめは老若男女とわず「劣った個体」や「規格外の個体」に対して様々に行われるわけで、
実は遺伝的にダメな個体を集団から排除する動きとして、生物に自然に備わっている働きなのかも知れない。


 とかいうことを公の場で言うと、必ず「いじめを正当化するのか」といって攻撃してくる人間がいるのだろうが、なぜ彼らの種類の人間は、
こういったナイーブな問題になると、「本質的なメカニズム論」と「あるべき論」を切り分けて考えられなくなるのだろう。
 人種差別や同性愛や(能力や障害の)遺伝の問題などについては、こういった人間の存在が研究を妨げている面が必ずある気がする。
 「腹が減っているときには、食べ物を見ると喰いたくなる」という主張をしても、食い逃げを正当化していると攻撃
してくる人間はあまりいないのに(理屈は一緒なんだが。)


 思うに、「腹が減って(後略)」の話は、誰にも身近で普遍的な話だから、直感的に(メカニズムとべき論を)切り分けて感じられるのではないだろうか。
 その他のナイーブな問題は、少し考えないと、別々の話であることが見えてこない。
 それに言ってしまえば、「正当化」という単語の定義は広いので、冒頭の話は「いじめを正当化している」といえば「している」と
いう捉え方も可能だ。(だって逆に「いじめを否定しているか」といえば「していない」し)
 正確にいうと、道義的な判断に踏み込んでいないだけで、正当化うんぬんとは全く別の次元の話をしているだけなんだけど、
直感的には「正当化している」と感じることは聞き手によっては可能というわけだな。

 
 世界人類がもう少し思慮深くなりますように(もちろんある部分では私を含めて)、というのがとどのつまりの結論な訳だが、まぁとにかくこのブログが1日1万ヒットするようなもので無くて良かったとしみじみ思う。
 もしそんなんだったら、何度大炎上していることだろうか・・。